「大塩平八郎の乱」の跡を訪ねる (大阪市)

◆ 実施日 :2018年12月19日(水)◆天気:晴
◆ コース :扇町駅 → 成正寺 → 造幣局→ 川崎東照宮跡 → 東町奉行所跡 →(地下鉄)→ 大塩平八郎終焉の地 →
→大阪管区気象台跡顕彰碑(勝山通り)の清掃
◆ 懇親会 :小柳亭
◆ 参加人数:16名

今回のハイキングは、午後から「大塩平八郎の乱」の跡を訪ねというものでした。「大塩平八郎の乱」とは、明治維新をさかのぼる事三十年、腐敗した幕府に、元幕臣自らが一石を投じ、幕末を予感させるかのように散った、難波のヒーロー大塩平八郎の足跡をたどる歴史散歩でした。「大塩平八郎の乱」の跡地は、ほとんどが石碑や顕彰碑で写真的には面白くありませんし、説明がないと分かりません。インターネットで調べたあらすじを最後に掲載しています。
また、例によって大阪管区気象台跡顕彰碑の清掃、そして小柳亭で今年の打ち上げ忘年会を行いました。

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大塩平八郎墓所(成正寺)
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蓮興寺?
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造幣局

洗心洞跡:ここは、大塩の邸宅に作られた陽明学を教える塾・洗心洞のあった場所。
今や石碑のみですが、ここで学生たちは大塩に教えを請い、乱の決起を模索した。
大塩の乱槐跡: 大塩の乱の時、大砲の攻撃によって裂けてしまった樹齢200年の槐(えんじゅ)の木があった所
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与力宅門(桜クラブ)
同じ造幣局官舎内にある与力宅門。この辺りは東町奉行所配下の天満与力宅が軒を並べていたとのことであり、唯一この門だけが残っている。
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造幣局を後に移動
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川崎東照宮跡 と 東町奉行所跡(大阪第一合同庁舎前)
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大塩平八郎終焉の地
『終焉の地の碑』は本町1丁目天理教教会の前にある。乱後、大塩平八郎は、この地に隣接した靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼び かけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時 代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。
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気象台跡顕彰碑の清掃

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小柳亭で忘年会
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「大塩平八郎の乱」のあらすじ

1836年天保の大飢饉が起き、極端な米不足となり餓死者があいついだ。百姓一揆や打ちこわしも多数起こった。そんな状態にもかかわらず米を大坂から江戸に送ろうとする幕府の大坂町奉行所に業を煮やした大塩平八郎は、元大阪東町奉行所の与力であったにも拘らず民衆の立場にたち天保8年(1837)2月19日、同志と共に民衆を苦しめる役人や金持ちを攻め滅ぼすため挙兵し大商人などの屋敷に火をかけた。この為大坂の町中のおよそ五分の一が焼けてしまいました。これが俗に云う大塩平八郎の乱であります。(インターネットから引用)

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